「遠りゃんせ」を読む

あの日の異臭
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 由理阿に続いて、懐中電灯を握った警官が階段を上る。
 定期的に受持ち地区内の家庭や事業所を訪問して、防犯指導をしたり、警察に対する要望・意見を聞いて回る、「巡回連絡」と呼ばれる業務をこなしているので、このアパートへ来ることもあった。
 だが、現在由理阿が入居中の部屋に寄ることはなかった。長い間借り手のないままになっていたから。こんな時間帯に来ることもなかった。巡回連絡は午前中の活動だから。
 由理阿の部屋の前に立つと、2年前の現場検証の戦慄が甦ってきた。当時は警察学校卒業後、交番勤務に就いたばかりで、警察の仕事を覚えている最中だった。
 まさかこの部屋に戻ってくることになろうとは、夢にも思わなかった。
「失礼しまーす」
 いざ意を決してドアを開ける。狭い戸口で靴を脱ぎながら、一人暮らしの若い女性の部屋が醸し出す独得の香りに、一瞬躊躇いを覚えた。
「あの――、越して来られてどれくらいっすか? 定期的に各家庭を訪問させていただいているんですが、この部屋随分長い間空き部屋になってたんっすよ」
 どうしても白いキャミソールワンピース姿にばかり視線が行ってしまう。由理阿に悟られないようにそっと生唾を飲み込む。
「もう2ヶ月になりますけど」
「住み心地はどうっすか?」
「駅に近いし、急行も停まるし、都心に出るのに便利だし、家賃も安くて、満足してます」
「そうっすか。それはよかった------」
 ごく普通のやり取りなのに、由理阿には警官の態度が腑に落ちない。何か言いたいことがあるのに、言い出しかねているという印象が拭えない。
 伏し目がちに部屋を横切ろうとした警官の目は、壁に貼られたホラー映画のポスターに釘付けになった。
 月明かりの下、沼のほとりの大木に向かって立つ女。白い長襦袢に身を包み、藁人形に五寸釘を打ち込む。死人のように白い顔に深紅の唇が映える。
「『フラッシュバック』。丑の刻参りか」
 そっと呟く。
 こんなにいい女に呪い殺されたら、本望だろうな。
 ふとそんな思いが頭をよぎり、思わず頭を振って打ち消した。
 白い手袋をはめてベランダに出ると、すぐに懐中電灯で床を照らした。
 やっぱり完全には消せなかったんだ------。まあ何も知らない人が見ると、気にも留めないかもしれないけれど。 
 心の中で呟いていた。
「どうかしたんですか?」
 あの日の記憶が呼び覚まされてきたが、心配そうな由理阿の声に、意識は現実に呼び戻された。
「いや、別に------」
 手のひらで口を押さえながら答える。
 嘔吐を催したのは、捜している足首から漂ってくる腐敗臭のせいではなく、あの日ベランダ全体を覆っていた、この世のものとは思えない異臭が記憶の底から甦ったからだ。ベランダの床に広がる惨状には、目を覆わざるを得なかったが、息もできないほどの臭気には、鼻と口をハンカチで押さえるくらいでは対処できなかった。今でも時折、何の前触れもなく意識の奥底から浮き上がってきては、吐き気を催させるくらい強烈なものだった。
「あっ、その洗濯機の後ろなんですよ」
 そう言いながらも、由理阿は椅子に座ったままだ。ベランダに近づこうとはしない。
「あっ、これっすね」
 込み上げる吐き気を押し殺したような声がした。
「昨日の飛び込み自殺者のに違いない。四方に飛び散った肉片を、ビニール袋を持って拾って歩いたんっすけど、左足首が見つかってなかったんっすよ。これで仏さんも成仏できればね------。それにしても、暗いのによく下から見えたもんっすね」
 両手で慎重に足首を取り、ビニール袋に収めた。平静を装っていたが、脳裏には昨夜の肉片回収シーンが、まざまざとフラッシュバックしていた。

 線路の至る所に、おびただしい量の血とともにぐちゃぐちゃの肉片が散らばっていた。
 耳や鼻などの顔の断片が転がっている。手や足の一部も目に入る。
 激しく込み上げてくる嘔吐感を抑えながら、バラバラになった礫死体を回収している間、それが、つい先ほどまで生きていた人間だということが信じられなかった。
 自分ならこんな無残な姿を公衆の面前にさらしたくはない。自殺しないにこしたことはないが、もしいつか自殺を決心したとしても違う方法を選ぶだろう。
 いつしかそんな考えに取りつかれていた。

 そんなこと露知らず、由理阿は返事に窮していた。
「------目がいいからでしょうかね。両目とも裸眼で1.5なんですけど------」
 そう言った後で、視力がいいといっても、暗闇の中で見えた説明にはなっていないことに気づいた。由理阿自身どうして見えたのかわからなかった。
 警官が疲れた表情で部屋に入ってきた。
「あの――、女の人だったんですか?」
 由理阿は、視界に入ってきたビニール袋から目を逸らし、遠慮がちに聞いた。
「そうっすよ。名前は------、確か綾瀬樹里っていったかなあ? この駅の反対側のワンルームマンションで一人暮らししてたんっすけど、さすが渋谷のアパレルショップ勤務だけのことはあって、着る物や身に付ける物が違ってたっすよ。アパレルショップといっても、駅直結のデパート内でね------」
「えっ、ずいぶん詳しいんですね」
 言葉が口を突いて出た。
「いや、その、何度か相談受けたもので------」
 警官は語尾を濁した。
 由理阿はどんな相談か興味をそそられたが、それを察したのか、警官は話題を変えてきた。
「それにしても、急行だから、結構スピード出てたんでしょうね。ここまで飛んでくるなんて。新幹線なんかだと一瞬にして跡形もなく粉砕されちゃうそうっすけどね------。そう言えば、この間、京都駅でのぞみに飛び込んで軽症で済んだ奴がいましたよね。あれって奇跡的っすよね」
「あの――」
 そう言い掛けると、警官が返答し始めた。
「ああ、『此れにて一件落着』っすよ。もうこの件は自殺ということで片付いてますから。
 実は、目撃者もいたそうなんっすよ。ただ、あっという間の出来事で、助けようにも助けられなかったそうっすけどね。そりゃそうっすよね。遮断機が下りていて、いつ電車が来てもおかしくないって時に、入っていったりしたら、自分まで轢かれてしまうかもしれないっすからね」
「いいえ、そういうことじゃなくて、わたしがお聞きしたかったのは、自殺の動機なんですけど------」
 どうしてもこれだけは聞かずにはいられなかった。
「あっ、そのこと。本件は踏切の現場検証と目撃証言から自殺と断定されましたので、それ以上のことは------」
 警官は返事に窮した。
 由理阿には何かを隠しているように思えた。
「あっ、それから、今度、巡回連絡カードに記入してもらいますが、これが、事故や災害等の非常時に役に立つんっすよ。今日はとりあえず、名前と住所と電話番号、ここに書いてもらえますか?」
 手帳を差し出しながら事務的な口調で言う。
 由理阿は言われるままに書き込む。
「はい、結構です。あっ、それで、職業は?」
「学生です」
 そこで警官はふと顔を上げ、怪訝そうに目を細める。
 普通の女子大生には見えないのかなあ? キャンギャルって言ったほうが信憑性があったのかなあ?
 そんなことを考えていると、すーっと白い手袋の手が伸びてきた。
「また何かありましたら、交番の方に連絡ください。緊急時にはこの電話番号まで。最近はストーカーも多いので、気をつけてください。それでは失礼します」
 警官にも名刺があったんだ。生まれて初めて警官から名刺をもらって、ドキドキした。
「御協力有難うございました」
 警官は、靴を履いて振り返ると、ビニール袋をさげてそそくさと出ていった。
 すると、これまで抑えられていた感情が、洪水のように溢れ出した。自分の気持ちじゃないとわかってはいても、激流に逆らうことなどできなかった。誰のものともわからない無念さに包まれ、どうしようもなく悲しくて苦しくて、テーブルにうつぶせになると、涙が自然と溢れ出た。
 足首を強くつかまれた時の衝撃が甦っていた。もう二度と起き上がれない苦しみを訴えていたのだとしたら、その思いは、つかんだ強さで痛いほど伝わってきた。
 涙も枯れ、幾分か落ち着いた頃、ふとある疑問が湧いた。もしあの感情が死んだ女のものだとしたら、どうして孤独感や絶望感が伝わってこなかったのか? 自分の命を自分で絶とうとする時、人はそういう感情を抱くものじゃないのだろうか?
 やはりあれは自殺じゃなかったのかもしれない。踏切で頭の中に湧き上がった疑問が捨て切れない。警官の態度もどことなく怪しかった。事前に何度か相談を受けていたのだから、何か思い当たる節があってもおかしくない。何か大事なことを隠しているような気がしてならない。由理阿には一件落着とは言い難かった。

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