小説

♦ピアノ☆

そのアパートには、1台のピアノがあった。部屋の隅に、ひっそりと置かれたピアノはとても寂しそうだった。

「誰か弾くんですか?」

問いかけに管理人のおばさんは静かに首を振った。

「私も主人もピアノが好きで、10年位前なら息子が弾いていたんだけれどね。息子がここを出てからは、もう誰も弾かなくなってしまって。」

おばさんの悲しそうな目をしながら笑った。ピアノの蓋を開けて、そっと鍵盤に触れると懐かしい記憶がよみがえった。

「夏目さん弾けるの?」

「2年前までは。もう弾けないですけど。」

「そう・・・」

翔がピアノと向き合っている間、おばさんはいつの間にかいなくなっていた。ピアノの鍵盤をそっと押してみると綺麗な音が部屋中に広がった。音を聞いた途端、数年前に諦めた夢を思い出した。もう弾かないと決めていたはずのピアノの椅子を引き、浅めに腰かける。改めて鍵盤に指を乗せると少しだけ震えていた。
軽く深呼吸をして、思い浮かんだ曲を弾き始める。しばらく弾いていなかったにも関わらず、指は思った通りに動いてくれた。

「上手いね」

おばさんが手を叩く。おばさんの夫も目を丸くしていた。

「そのピアノ、これから好きに弾いていいよ。」

「本当ですか?」

「もちろん。勉強だけじゃなくてたまには息抜きもしないとね。」

おばさんがふと自分の母親に見えた。

「ありがとうございます。」

そう言って翔はピアノを撫で
た。


END

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